教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。2024年からUdemy講師。 公式サイト:れきぞう(歴蔵) https://www.sowhatzone.com/ note https://note.com/simpleple/ X https://x.com/chrono_history Udemy https://www.udemy.com/user/song-yuan-xiu-zhi-2/
最新エピソード
#291【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成9:ウィーン体制その9
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第264回目は「ウィーン体制その9」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 パリで始まった二月革命がオーストリアとドイツに波及して三月革命となった。ウィーンで革命が起こり、ウィーン体制を支えてきたメッテルニヒが失脚する。ハプスブルク帝国内でも、ハンガリーやベーメン、北イタリアなどで自由や自治、民族的権利を求める運動が広がった。ベルリンでも市民が蜂起し、プロイセン国王は自由主義的な改革を約束せざるを得なくなった。
#290【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成8:ウィーン体制その8
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第263回目は「ウィーン体制その8」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 フランス七月革命の影響は国外にも広がった。ウィーン会議によってオランダと一つの国家にまとめられていたベルギーで、1830年8月に革命が始まり独立へと向かった。 七月王政下のフランスでは産業革命が進み、産業資本家や労働者の存在感が増していく一方、政治に参加できるのは一定額以上の税を納める富裕層に限られていた。選挙権の拡大を求める声が高まったが、政府を率いたギゾーは改革に消極的だった。 そこで反対派は、政治集会の代わりに宴会を開いて選挙制度の改革を訴える「改革宴会運動」を展開した。1848年2月、政府がパリで予定されていた改革宴会を禁止すると、抗議運動は革命へと発展する(=二月革命)。ルイ=フィリップは退位してイギリスへ亡命し、第二共和政が成立した。
#289【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成7:ウィーン体制その7
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第262回目は「ウィーン体制その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 フランス革命によって広がった自由主義やナショナリズムは、1830年と1848年、フランスで起きた二つの革命により再びヨーロッパ各地に広がることになる。 ブルボン朝が復活したフランスでは、シャルル10世が保守色を強めていた。1830年、選挙で自由主義派が勢力を伸ばすと、彼は七月勅令を出し、出版の自由を制限するとともに、新たに選ばれた議会を解散した。これに反発したパリ市民が蜂起し、七月革命が勃発する。彼は退位し、代わってルイ=フィリップが「フランス人の王」として即位した。
#288【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成6:ウィーン体制その6
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第261回目は「ウィーン体制その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ウィーン体制のもとでも、自由主義や民族独立を求める動きは止まらなかった。1821年、オスマン帝国の支配下にあったギリシアで独立戦争が始まる。古代文明への憧れもあって、ヨーロッパでは独立を支持する世論が高まり、イギリスの詩人バイロンは実際に独立運動に参加した。フランスの画家ドラクロワも『キオス島の虐殺』などを描き、同情を広げた。 独立を決定づけたのは世論だけではなかった。地中海やバルカン地域に利害をもつイギリス・フランス・ロシアが独立を支援する。1830年のロンドン会議で、ギリシアは独立国家として国際的に承認された。
#287【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成5:ウィーン体制その5
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第260回目は「ウィーン体制その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 1808年、ナポレオンがスペインに侵攻すると、スペイン王家の権威が揺らぎ、アメリカ大陸のスペイン植民地でも本国からの自立を求める動きが強まった。その中心となったのが、植民地生まれの白人であるクリオーリョだった。彼らは植民地社会では土地や富をもつ有力層だったが、政治の重要な地位では本国出身者が優遇されることに不満を抱いていた。1810年代から独立運動は各地に広がり、北部ではシモン=ボリバル、南部ではサン=マルティンらが活躍した。1820年代にはスペイン領アメリカの大部分が独立していった。 ウィーン体制下にあるヨーロッパの保守諸国はこうした革命と独立の広がりを警戒したが、列強の足並みはそろわなかった。イギリス外相カニングは、独立した中南米諸国との自由な貿易に期待し、スペインによる植民地支配の回復に反対した。また1823年、アメリカ大統領モンローも、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉に反対するモンロー宣言を発表した。こうして中南米では、ヨーロッパの保守体制とは異なる国際秩序が形成されていった。
#286【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成4:ウィーン体制その4
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第260回目は「ウィーン体制その4」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ウィーン体制は、自由主義やナショナリズムを警戒し、ヨーロッパの秩序を革命以前の状態に戻そうとした。しかし、世界ではすでに大きな変化が始まっていた。その先駆けの一つが、カリブ海のフランス植民地サン=ドマングで起きたハイチ革命である。1791年、黒人奴隷による大規模な反乱が始まり、フランス革命の混乱のなかで独立への動きへと発展した。トゥサン=ルヴェルチュールらが活躍し、激しい戦いの末、1804年にハイチ共和国として独立した。奴隷として支配されていた人々が植民地支配を打ち破って国家をつくったことは、当時としては極めて大きな出来事だった。
#285【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成3:ウィーン体制その3
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第259回目は「ウィーン体制その3」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ウィーン体制の中心にいたメッテルニヒらが警戒したのは、フランス革命とナポレオン戦争を通じてヨーロッパ各地に広がった自由主義やナショナリズムであった。王朝と君主制を中心とする秩序を守るため、列強は革命運動が再びヨーロッパを揺るがすことを防ごうとした。 その国際協調を支えたのが、アレクサンドル1世の提唱による神聖同盟や、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンによる四国同盟である。とくにメッテルニヒは自由主義・ナショナリズムを危険視し、ドイツではブルシェンシャフトなどの学生運動が弾圧された。イタリアではカルボナリによる革命運動が抑え込まれ、ロシアでも1825年に自由主義的な青年将校らによるデカブリストの乱が鎮圧された。
#284【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成2:ウィーン体制その2
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第258回目は「ウィーン体制その2」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ウィーン会議は、各国の利害が対立したため交渉は難航し、華やかな舞踏会や宴会が連日のように開かれたことから、「会議は踊る、されど進まず」とも評された。それでも1815年にはウィーン議定書がまとめられ、ナポレオン戦争後のヨーロッパの枠組みが定められた。 その結果、ドイツでは神聖ローマ帝国に代わって39邦からなるドイツ連邦が成立し、オーストリアがその中心的地位を占めた。また、フランス北方にはオランダとベルギーを統合したネーデルラント王国が置かれ、プロイセンはライン地方などを獲得した。オーストリアは北イタリアへの支配を強め、ロシア皇帝を国王とするポーランド王国も成立した。さらにイギリスはセイロン島やケープ植民地などを獲得し、海外での優位をいっそう強めた。 こうして成立した国際秩序を「ウィーン体制」という。
#283【通史】世界史⑭:欧米国民国家の形成:ウィーン体制その1
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第257回目は「ウィーン体制その1」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ナポレオン戦争によって大きく揺らいだヨーロッパでは、戦後の新たな秩序を築くため、1814年からウィーン会議が開かれた。会議を主導したのはオーストリア外相メッテルニヒで、ロシア皇帝アレクサンドル1世やフランス代表タレーランをはじめ、ヨーロッパ各国の君主や外交官がウィーンに集まった。 会議では、ナポレオンによって崩された国境をどう引き直すかをめぐって列強の思惑が衝突した。そこで重要な原則として掲げられたのが、タレーランの主張した「正統主義」である。これはフランス革命やナポレオンによって倒された正統な王朝を復活させようとする考え方で、フランスではブルボン朝が復活した。ただし、ヨーロッパを革命以前の状態にそのまま戻したわけではない。実際の領土再編では、特定の国が突出して強大にならないようにする「勢力均衡」も重視された。
#282【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命28:フランス革命その15
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第256回目は「フランス革命その15」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ヨーロッパの国際秩序の立て直しを目指すウィーン会議は、各国が自分の国の領土拡大や利益を優先して争ったため進まず、フランスでは復古王政への不満が広がっていた。これを機に1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出してフランスへ帰還する。彼を捕らえるために派遣された兵士たちまで次々とナポレオン側につき、ほとんど戦うことなくパリへ入城。ルイ18世は逃亡し、彼は再び皇帝となる。 しかし、この復活はわずか100日ほどで終わった。イギリスのウェリントンらが率いる連合国軍とのワーテルローの戦いに敗れると、ナポレオンは再び退位した。今度はヨーロッパから遠く離れた大西洋の孤島セントヘレナへ送られ、二度とフランスへ戻ることはなかった。
#281【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命27:フランス革命その14
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第255回目は「フランス革命その14」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 スペインでは、ナポレオン1世が兄ジョゼフを国王に据えたことに反発して民衆が蜂起した。各地でゲリラによる抵抗が続き、フランス軍を苦しめた。 さらに1812年、ナポレオンはロシア遠征に失敗し、大軍の多くを失った。これを好機とみたプロイセンはロシアと結び、ナポレオン支配からの解放をめざして解放戦争を開始し、やがてオーストリアなども加わった。その解放戦争の最大の決戦となったのが、1813年のライプツィヒの戦いである。ここでナポレオンは連合軍に敗れ、ドイツから撤退した。翌1814年には連合軍がフランスへ侵攻してパリを占領し、ナポレオンは退位してエルバ島へ流された。そしてブルボン家のルイ18世が即位し、王政が復活する。
#280【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命26:フランス革命その13
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第254回目は「フランス革命その13」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 1807年、ナポレオン1世はプロイセン・ロシアとティルジット条約を結び、ヨーロッパ大陸で圧倒的な優位に立った。敗れたプロイセンは、ポーランド分割で獲得していた地域などを失い、国土を大幅に縮小された。 しかし、ナポレオンの支配が広がるほど、それに対する反発も強まっていった。敗戦によって大きな打撃を受けたプロイセンでは、シュタインやハルデンベルクらが農民解放などの改革を進め、国家の立て直しを図った。また、フランス軍占領下のベルリンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』と題する連続講演を行い、ドイツ人としての民族意識を訴えた。
#279【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命25:フランス革命その12
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第253回目は「フランス革命その12」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 1806年、ナポレオン1世はドイツ諸邦をまとめてライン同盟を成立させた。これを受けてハプスブルク家のフランツ2世が帝位を放棄し、10世紀以来続いてきた神聖ローマ帝国は消滅した。さらにナポレオン1世は、征服した地域に兄弟や親族を君主として送り込み、フランスを中心とする巨大な支配体制を築いていった。 大陸で圧倒的な優位に立ちながら、海ではイギリスを打ち破れなかったため、今度は経済力によってイギリスを屈服させようとする。ベルリンで大陸封鎖令を発し、ヨーロッパ大陸とイギリスとの通商を断つことで、イギリス経済に打撃を与えようとした。
#278【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命24:フランス革命その11
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第252回目は「フランス革命その11」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 皇帝ナポレオン1世がヨーロッパ各地で勢力を広げると、これを警戒したイギリスの首相ピットはロシア・オーストリアなどに働きかけ、1805年に第3回対仏大同盟を成立させた。 ナポレオンはイギリス本土への侵攻を計画したが、トラファルガー沖の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊に敗れ、海を渡ってイギリスを攻略することは困難となった。しかし陸上では圧倒的な強さをみせ、アウステルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に大勝した。この敗北によってオーストリアが戦線から離脱し、第3回対仏大同盟は崩壊した。こうしてヨーロッパでは、「海ではイギリス、陸ではナポレオン」という勢力図が鮮明になっていった。
#277【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命23:フランス革命その10
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第251回目は「フランス革命その10」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 ナポレオンは、オーストリアなどを破って第2回対仏大同盟を事実上崩壊させ、1802年にはイギリスとアミアンの和約を結んで一時的な和平を実現した。こうした内政・外交上の成功を背景に、彼は国民投票による承認を受けて終身統領となった。 さらに1804年には、法の下の平等や私有財産の保護など、フランス革命がもたらした重要な原則を法制度として定着させる民法典(のちのナポレオン法典)を公布した。同年、元老院の決議によって皇帝ナポレオン1世となり、国民投票でも承認され、フランスでは第一帝政が始まった。
#276【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命22:フランス革命その9
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第250回目は「フランス革命その9」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 国内外で総裁政府への不信が高まるなか、ナポレオンは1799年にエジプトから帰国し、ブリュメール18日のクーデタを決行した。これによって政府は倒され、新たに統領政府が成立し、ナポレオンがフランス政治の中心に立つことになった。 彼は革命後の混乱を収拾し、国内体制の安定化を進める。1800年にはフランス銀行を設立して財政・金融の立て直しを図り、翌1801年には教皇と宗教協約(コンコルダート)を締結して、革命以来悪化していたカトリック教会との関係を修復した。
#275【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命21:フランス革命その8
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第249回目は「フランス革命その8」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 テルミドールの反動後、1795年憲法にもとづいて5人の総裁が行政を担う総裁政府が成立した。しかし、国内ではバブーフらによる平等主義者の陰謀が発覚するなど、政治的な混乱が続いていた。こうしたなかで急速に頭角を現したのが、軍人ナポレオン=ボナパルトである。彼はイタリア遠征でオーストリア軍を破り、第1回対仏大同盟を事実上崩壊させ、一躍国民的英雄となった。 その後、イギリスとインドとの連絡を断つことをねらってエジプトへ遠征したが、フランス艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊に敗れたため、ナポレオン軍はエジプトで孤立した。さらにフランスの勢力拡大を警戒した諸国によって第2回対仏大同盟が結成され、フランスは再び危機に直面した。
#274【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命20:フランス革命その7
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第248回目は「フランス革命その7」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 革命戦争や国内の反乱によって情勢が緊迫するなか、山岳派(ジャコバン派)は対立するジロンド派を国民公会から追放し、政治の主導権を握った。1793年には男子普通選挙を盛り込んだ民主的な憲法(=1793年憲法)を制定したが、戦時下の非常体制を理由に実施には至らなかった。一方、封建地代を無償で廃止して農民の土地所有を安定させるとともに、物価の高騰を抑えるため最高価格令を導入した。 さらにロベスピエールらを中心とする革命政府は、国民公会内の公安委員会に権力を集中させて、反革命とみなした勢力を厳しく取り締まり、恐怖政治を進めた。しかし、相次ぐ粛清への不安や強権的な政治への反発が高まり、1794年のテルミドールの反動によって失脚した。
#273【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命19:フランス革命その6
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第247回目は「フランス革命その6」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 1792年9月、男子普通選挙をもとに国民公会が招集され、王政の廃止と共和政(第一共和政)の成立が決定された。議会では、穏健なジロンド派と急進的な山岳派が対立し、その間に多数の平原派が存在した。1793年1月にルイ16世が処刑され、さらにフランス軍がベルギー方面へ進出すると、革命の波及とフランスの膨張を警戒したイギリスなどのヨーロッパ諸国は対仏大同盟を形成した。一方、国内でもヴァンデー地方を中心に反革命反乱が発生し、フランスは内外から危機に直面した。
#272【通史】世界史⑬:産業革命と環大西洋革命18:フランス革命その5
教科書レベルの世界史(通史)が1日5分、ながら聞きで学べます。第246回目は「フランス革命その5」【オリジナル基本文】⇒【補足解説】の順に進めます。 ◇オリジナル基本文 1791年に成立した立法議会では、立憲君主制を支持するフイヤン派や、対外戦争に積極的なジロンド派などが有力勢力となった。翌年、ジロンド派の主導でフランスはオーストリアに宣戦したが、革命による軍内部の混乱もあって戦況は悪化し、プロイセン軍などの侵攻によって革命政府は危機に直面する。こうしたなか、地方から集まった義勇兵とパリ民衆が王の宮殿を襲撃する8月10日事件が起こり、国王ルイ16世の権力は停止された。その後、フランス軍はヴァルミーの戦いでプロイセン軍を中心とする連合軍の進撃を阻止し、革命は最大の危機を乗り越えた。